Type 64 (1939)  "The Grand Father"


1939年~40年にかけて3台が製作されたType 64は、ベルリン~ローマ間 1300km を走破するラリー用に製作されたレーシングカーです。ヒトラーの命を受け政府の国民車(フォルクスワーゲン)計画を担当していたポルシェは、このレースへの参加をワーゲンの部品を使ってスポーツカーを製作するという、予てからの夢を実現する絶好の機会と考え、ワーゲン(Type 60)の10番目の試作ボディ(K10)と政府に申請し、3台のスポーツカー(60K10)製作許可と開発資金を得ました。そのためType 64は、書類上の名称であるフォルクス・ワーゲンType 60K10 と呼ばれることもあります。より大きなバルブと2基のキャブレターにより45馬力に出力アップされたワーゲンの 1.1リッター・エンジンの能力を最大限に活かすため、空気抵抗の小さいアルミ製の軽量ボディがType 64のために新設計されました。ワーゲンのコンポーネンツを使用しているものの、シャーシはType 64のために設計された専用品で、ワーゲンより200kgも軽い545Kgの車体は、完成したばかりのアウトバーンにおける公道テストで150km/hの巡航速度を記録しています。

 

当時ドイツの政権を握っていたナチスドイツが同盟ファシスト国であるイタリヤとの密接な関係を国内外にアピールするため計画したベルリン・ローマ・ラリーは、1939年1月、ドイツのポーランド侵攻とともに9月の開催を待たずに中止され、Type64がこのレースで活躍することはありませんでしたが、このType64は軍用車両開発の責任者としてドイツ国内の生産拠点を頻繁に移動していたポルシェ博士の日常の足として大戦中を通じて使用され、その膨大な走行実績から得られた各種のデータは、その後356開発の際に活用されたといいます。
ポルシェ博士の所有するType 64は、戦後を迎えることができた唯一のType 64で、1947年にBattista Farinaで完全なレストアが施されました。1949年、ポルシェからこのType 64を譲り受けた Otto Mathe は、1950年のアルペン・ラリーにType 64でクラス優勝し、国際レースに初めてポルシェの名を刻んでいます。彼は1995年に亡くなるまで約50年にわたりType 64を愛用し、地元オーストリアのレースで活躍しました。


この作品はProfil24 の1/24レジン・キットを組んだものです。このキットには多少特徴の異なる3台のType64から好みの一台を選んで仕上げるためのエッチング・パーツとデカールがセットされています。最近のレジン製キットにしては珍しく、ボディは左右のバランスがやや崩れており、エッチング・パーツで表現された窓枠の形状や大きさも左右で微妙に異なっています。我慢してそのまま使用するか、面倒でも作り直すか悩むところですが、部品数の少ないキットでもあり、今回はボディ全体が左右対称になるよう大掛かりな修正作業を実施し、ついでにボディ後半のストリームラインがより実車のイメージに近づくよう手を入れてみました。元々Type64は左ハンドルですが、キットのダッシュボードは右ハンドル用となっています。2輪レースの事故により右腕を失い、「片腕のレーサー」として知られる Otto Mathe は、左腕のみでステアリング操作とシフトチェンジができるよう、この車を右ハンドルに改造して乗っていました。約半世紀にわたりType64を愛用した Mathe に敬意を表し、そのままオットー・マテの右ハンドル仕様で組んでみました。リヤ以外の窓枠を自作し、キットでは省略されているドア内張り等を追加して仕上げています。 
フロントに輝く「PORSCHE」のロゴはフェリー・ポルシェ自らが取り付けたことが本人の自伝により知られており、事実上「ポルシェの名を冠した最初のレーシングカー」としてポルシェ博物館に展示されるべき車両ですが、
軍用車両の開発でナチス政府と深い関係にあったポルシェにとって、ナチス政府の資金で作られたType64は、戦後に誕生した新しいスポーツカー・メーカーとして出発するポルシェのスポーツカーとして公認するには相応しい時代ではなかったという皮肉な歴史をもつ車両です。レジン製とはいえ、こんなマイナーな車両がキット化されたことに驚きつつも、The Grandfatherのニックネームで知られるとおり、全てのレーシング・ポルシェの祖先にあたるType64は、ぜひコレクションに加えておきたい一台です。